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私の「構造(主義)改革」。



自分の人生をその生き方を含めて、私たちは「自分の意志のみで『選択』し『決定』しているのである」・・・、「実存は本質に先立つ!」という実存主義に出会った時、若き日の私は小躍りしたことを覚えています。「オレの人生はオレのもの」「オレは自分を信じて思うような生き方をすればいいんだ」・・・、そう思うと、何だか急にそれから始まる(きっと長い)人生にひと筋の光が差し込んだようで嬉しかったのです。

高校卒業後、だから私は「私自身の実存」に焦点を絞ってそれを磨き上げ、決して私の人生の選択に私の意志以外の他の何ものも介入させることなく生きていた・・・、つまり私は「実存主義」をまっとうに受け入れそれに従って生きてきた・・・、そう思っていたのです。

しかしそのような思い自体が私の独善であり、私が磨きをかけ続けてきた「実存」の存在・・・、そのことだけに寄りかかっている自身の生き方が、実はファンタジーの世界でのみ許される現象であることに気づかされるのは「構造主義」との出会いによるものでした。

以来、社会人となってからの私は、それまでの自身を構築してきたあらゆる「構造」と、正面から向き合っていくことになります。それは私が選んだ(実存主義の立場から『選んだ!』と思っているのですが・・・)高校教師(社会科)という職業上からもそうせざるを得なかったところの真面目な取り組みたったのです。つまり私は私自身の「成り立ち」を正しく把握しておかねばならず、それを怠ってしまったら、その後の職業的に出会う数多の生徒たちそれぞれの「成り立ち」に思いを馳せることができなくなる・・・、そしてそれは「私」という「一眼」のみで他者を判定・評価するといった教師として実に陥りがちな危険な領域に踏み込んでいる自身に、私自身が送ったシグナルを誠実にキャッチしたからであろうと思っています。そう考えると(実存主義でそこまでの自分を育ててきたと思っていた)若き日の自分も「案外と感覚的にはまともだったのかな」と自分を褒めてあげたい気持ちです。

さて、私が自身の「構造」と向き合った時、最初に私の五感を支配したのが「油と汗の匂い」「鉄が切断される音」「電気溶接が放つ火花」「人々の怒号」でした。つまり「工場」とそこに集まる「労働者」がつくる小社会・・・、それが私の「構造」の原点です。そしてそのような社会には、あらゆる人々が入退場を繰り返していました。失業者、前科者、在日韓国・朝鮮人、軽度の知的障害者、(自称)被差別部落民・・・、そのようないわば社会の底辺で、それこそ這いつくばって生きていた人々が交錯するところの現場、それが私の原点だったのです。そのような労働者の、彼らが決して隠すことのない「剥き出しの感情」に包まれながら、少しだけ内向的であった私は、人間の放つ本質・・・、つまりは「人の怒り」「人の妬み」「人の裏切り」、そして「人のホントの優しさ」を体感しながら、たぶん少しずつ「人を見る目」が形成されていったのだと思われます。

親戚や知人の中に、いわゆる「サラリーマン=キレイな職業(という感覚があった)」がいなかったわけではありません。しかし父親がそういった人々との交流を意図的に避けていたのです。たぶん父親の中には「肩書き」や「社会的ステータス」で生きる人々を、本質的には信用していなかったのだと思います。「実力=本当に生きようとする力」だけで勝負していた人々との間に、心の奥底で繋がっていたものがきっとあったのでしょう。だから父親は、例えば「保険」などいう安定した生活を担保するためのシステム(商品)を毛嫌いしていました。「生きるも死ぬもオレ次第」・・・、だから「オレは必死になって働かなければならない」・・・、これが父親の本性です。。つまり、そうなんです。父親こそ「実存主義」の権化でした。

そのような「構造」からの脱出を私が果たしたのは、以前にもブログでお伝えしましたが、大学への進学がきっかけでした。「私の知らない世界=構造がきっとどこかにある」という漠然とした引力に引きずられながら私は地元との縁を「キッパリと切る」覚悟を決めたのです。そしてその覚悟は、後になって知らされるのですが、地方の出身者が「地元に残る」か「東京に出るか」を選択する際の、後者の思いと覚悟に通底するものだと思います。

「地元に残る」という選択も確かに一大決心ではあります。経済的理由や家業を継ぐなどの理由から、地元で・・・、そう「地元という構造」の中で、自身の立ち位置をより深めていく・・・、そういった生き方を決して否定はしません。しかし同時に、戦後の日本人が(勘違いであるとしても)実存主義的な生き方を社会やとりわけ学校から擦り込まれてきていた(1970年代まではサルトルが全盛でした)のですから、自分の生きる場所を「自分で選択する」ことは至極当然なことで、よほどのことがない限り「東京に出る」という情動は抑えることができなかったのだと思います。こうして例えば「東京」は、若者たちの「実存」の受け皿となっていったのですが、まさかそのような現象が、一部若者の「構造を変える」という本能にも近い無意識の情動が牽引していたなんてことは、当時の一般人には知るよしもありません。

そして私も「実存を極めるために構造を変えた」ところの1人です。結果的には、単に「構造主義」の中で自己のアイデンティティーの声に忠実に従っていただけのことなのでしょうが、私の場合、この一大決心の結果、自身を取り巻く「構造」が劇的に変化したのです。そして同時に新しい「構造」の中で、私自身の思考の角度や深さが変化していった・・・、もちろん無意識下ではありましたが、完全に思考経路に激変が起こりました。

ところが・・・です。

私の人生の第2幕ともいえる「サラリーマン=綺麗な仕事」「教員=社会的に認められた職業」「学校=子どもたちの未来に夢を与える場所」などという新たなる舞台で、私は自身の「実存」を完全に見失ってしまいます。「教育」という耳障りのいい環境の中にあって、平均的な幸せに向かって家族をつくり、人並みの出世をし・・・、気がつけば「学校」を取り巻く様々な人々の複雑な利害関係という「構造」の中で、その構造物の鉄筋の一つにしかなり得ていない自身の存在に気づくのは、40をとうに過ぎてしまった頃でした。

そして私は、私自身の「実存」に問いかけます。「これが本当のオマエなのか?」・・・と。すると「実存」はすぐに反応しました。「オマエの『頭』は未だにオマエのために使い切られてはいない」・・・と。

「自分のために『頭』を使い切る」という発想を得てから、私はそれまでの仕事人生を振り返ります。そうすると見えてきました。それまでの私の心の拠り所(生きる原動力)となっていたものの正体・・・、それが「〇〇のため」という自身に対する壮大なる詭弁であったことに気づかされたのです。

生徒のため、学校のため、教育のため、社会のため、そして家族のため・・・、私のあらゆるものごとの選択と決定に、この「〇〇のため」が優先されていた・・・、そしてそのように生きることで(小さな)社会の役に立っている、そう、「構造」の一部として自分が十分に機能している・・・、そういった自分に酔っていたのです。

したがって私の人生と「私の『頭』」は、完全に自身を取り巻く「構造」に組み込まれ、私のすべてのエネルギーが「構造」へと吸い上げられていきました。その結果、私のエネルギーは枯れ果てた・・・、これが当時の私を襲っていた「うつ」の原因である・・・、そのように私は自身の身の上に起きた一大事を分析したのです。

ならば「再び構造を変えよう!」とする当時(40代後半)の思いは、決して若かりし頃に地元を飛び出した時の無意識の感覚ではなく、確信に近い思いだったのです。

こうして私は、一端自身にまとわりつく「構造」から退場してみようと考えました。具体的にはすべての人間関係と仕事上の役割、仕事の量と質、家族との関わり方・・・、それらを見直して「構造改革」を試みたのです。職場を変えるという構造改革も考えましたが、以前のブログでも述べたように、周囲(特に家族)からの不安の声に応えて、そのようなラジカルな改革欲は封印しました。そして一番大切な要因として「私自身の考え方を変える」という行為も、それを意図的に成し遂げなければ、私の「構造改革」は実現しないであろうことは理解していましたので、その部分にも思い切ってメスを入れました。

つまり「私の考え方のクセ」は、端的に述べれば「カッコをつけた言動の先にある『八方美人』への道」を歩んでいるようなもので、「誰からも信頼されたい」「誰にでも役に立ちたい」「スゴイと思われたい」とする前提の上での思考(考え方)そのものにあったのです。

私は自由を取り戻した「私の内面」で、思考に思考を繰り返しそれを重ねていきました。それこそ10年にわたる試行錯誤の末にやっと60を前にして辿り着いた境地・・・、それが現在の私の新たなる「構造」の世界です。その「構造」の中核には・・・、そうなんです・・・、「実存主義」が再び戻ってきたのです。

「実存主義」か「構造主義」かではありません。「実存主義」的な考え方による「構造」があってもいいのではないか・・・、それも「構造主義」の一面なのではないか・・・、そのように考えるに至ったのです。

「実存は本質に先立つ」という名言にそれを置き換えるならば、「実存が構造を支配する」ことだって起こりえるのではないか・・・、ということなんです。
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