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真の「ゼネラリスト」待望論。



どんな組織にも特定の専門性に長けている人々、つまりスペシャリストというのが存在します。しかしそのような人々は初めから「スペシャル」であったわけではありません。

今までの日本型企業では、新卒一括採用という独特の雇用形態をとってきましたから、雇用されてから数年間はその人材が「スペシャル」であるか否か、または今後「スペシャル」な存在になるか否か、という判断ができないのです。そこでとりあえずは「様々な部署」での経験を積ませ、どの分野で「スペシャル」になるかを見極める…、そいうったことが「社内人材育成」という看板の下で行われてきました。

企業で言えば「まずは営業から」が定番となり、営業職を通じてその企業が展開する市場の全体像を掴むことから会社員としてのキャリアがスタートするのが一般的です。それが学校となれば「まずは担任から」というルートで教員としてのキャリアがスタートします。企業における営業職が市場全体を相手としているのと同じように、「担任」は「何でも屋」として学校教育という全体像を掴むのに都合がいいし、何より教員としての資質を見極めるための登竜門になるからです。

そういった全方位的な経験の中から、例えば「市場の分析に長けている」「商品の企画に長けている」「やはり『営業』に長けている」「生徒指導に長けている」「進路指導に長けている」などという評価の下で、それらの分野でスペシャルな人材となるような投資を企業が潤沢に社員に施していく…、ここでいう投資とは、例えば「経営学博士(MBA)の取得を促す」とか、「大学の研究室に一定期間出向して、そこで専門性に磨きをかける」「海外の最先端教育を現場で経験させる」などということですが…、実はここまで真剣に投資をし、真のスペシャリストを養成しようとする企業は一部上場企業でもない限り稀です。ましてや学校では限りなくそのうようなマインドは希薄でしょう。

特に、なぜ学校は人材への投資にそこまで躊躇するのでしょうか? それには理由があります。公立はもちろんのこと、私立であってもその経営には公費(税金)が投じられていますから、常に単年度での「コスパ」を優先するという考えの下で存在することが許されているからです。よって一度採用した人材は、あくまでも「学内(教育委員会内)のリソースで専門性を高める」ことにこだわります。つまり例えば、敢えて(公費で)大学院に通わせて「教育の最先端分野や専門分野を深める」という投資は行わないのです。ただ理論的には国(文科省)が旗振り役となって、海外の最先端教育視察を実施し、そこから得た知見を元に、その情報を各自治体の教育委員会へと落とし込んでいくことで、間接的に教育を世界基準に更新していくことは可能でしょう。しかし現行の日本でICT教育や教育のデジタル化がかなり遅れていることからもわかるように、そのようなシステムが上手く作動しているとは言えません。教育界がそんな体質であるために、ここ20年くらいの間に学校現場では「ある困った現象」が発生しています。

英語の先生が時流についていけないのです。つまり現行の英語の先生は、それこそ難しい受験競争を勝ち抜けてきたところの「英語のスペシャリスト」と評価してもいいのですが、当の本人たちは実はそう思っていません。誤解を恐れずに告発しますが、日本の英語の先生は「常にネイティブ英語に対するコンプレックス」を抱いている人々が多いのです。どんなに理想的な授業を展開し、例えば大学受験指導などでそれを受講する生徒からの評価が高くても…、ダメなんです。自身の近くでネイティブ英語を自在に操る同僚の存在が、非ネイティブの先生方の心をざわつかせます。「ネイティブでない」という事実を無視することができないからです。そしてそのような感情は理屈では消すことができません。「ネイティブでない英語の先生」をも正当に評価しようとする覚悟と理論が、今の英語教育界には存在しないからです。英語の先生のそういった苦しみ、或いは焦りは、端から見ている私にも十分に伝わってきますから、私が英語の先生でも絶対にそのようなネガティブな感情に包まれながら教壇に立つことになるのだな…、と想像することができるのです。

だからそういった時流に乗り遅れまいとする英語の先生は「駅前留学」をします。もちろん自費で…。さらに私の知る英語の先生は、30歳を前にして一度職場を退職しました。ネイティブ英語を獲得するためのアメリカ留学を実行するためにです。その先生…、初めは学校側に「留学してネイティブ英語を身につけたいから2年間休職にしてくれ」、つまりは職場に籍を残したままで留学を実行しようと考えていました。しかし学校側の回答は「NO!」…、これが現実です。

こんなことでは企業でも学校でも「真のスペシャリスト」が育つわけがありません。たとえ育ったとしてもそういった人材は貴重ですから、簡単に高額オファーで他社や他校へ引き抜かれてしまいます。よって数年前あたりから中途採用の労働市場が少しずつ活気づいてきているようです。もはや新卒一括採用という雇用とは別枠で、「スペシャリスト」を獲得するための中途採用枠を通年で確保していくしか方法はないのですが、残念ながら「真のスペシャリスト」は有限で、さらに労働市場に「真のスペシャリスト」…、それを本当に欲している職場と繋げるための装置(転職サイト?)が十分に育ってきているとは言い難いのが現状です。よって企業も学校も「真のスペシャリスト」とは中々出会うことはなく、ですから「生え抜き社員(教員)」を自前で「スペシャリスト」にするしかない…、やはりそのような伝統的な方法しか残っていないのです。ところがそのようにして「自前で育てたスペシャリスト」にそのスペシャルに見合った高額報酬を与えることはないでしょう。スペシャルに育て上げたのは職場ですから、そのスペシャルの価値は職場の全員で分かち合うのです。だから賃金は。当然に年功序列…、スペシャルであろうがなかろうが、年功序列…、という世界にあって「スペシャリスト」は、(自身の価値を正当に評価してくれるところの他社へ、または他校への転出を果たさない限り)いずれそのモチベーションを保つことができなくなるはずです。私はこのような現象をたくさん見てきましたが、そのようにして消極的なカタチで職場と繋がっている「自称スペシャリスト」を私は「なんちゃってスペシャリスト」と呼んでいます。

それでも「スペシャリスト」の世界は可視化しやすく、あくまでも市場原理で動いていきます。どんなに時間がかかっても本人が市場にアクセスし続けてさえいれば、「使える人材」は、それを高く評価する職場と出会ってその才能を評価される時代が、もうすぐそこまで来ています。世界的には標準となっている「ジョブ型労働形態」を取り入れる企業が、今後増えてくるであろうことは「働き方改革」という側面から見ても間違いなさそうです。だから「スペシャリスト」の心配は、あまりしなくてもいいんです。

問題なのは「スペシャルではないその他の人材」です。そのような人々に労働市場は「ゼネラリスト」という呼称を与えて、何とかその価値を高めようとしていましたが、そのような姑息な手段はもう限界です。何が「姑息」かって、単に様々な部署を経験してきて、一応全体像は見えてはいるが「なんとなく人間関係を上手にこなしてきた」だけの人々を一律に「ゼネラリスト」と称して出世させてきた…、そのような日本型の出世物語そのものが「姑息」であると言いたいのです。ハッキリと言って、日本の企業や学校の「ゼネラリスト」の最終ゴールが管理職であるとするならば、彼らは「真のゼネラリスト」ではありません。ただ単に「人付き合いが上手かった」「組織を守ることに長けていた」、つまりは「決して波風を立てなかった」ところの人々であったにすぎません。

「真のゼネラリスト」とは、総合的能力に長けている人材であると置き換えることができますが、この総合的能力の一番の肝になるのが、きっと「マネジメント能力」なはずです。そして「真のマネジメント能力」とは、何度も言いますが、決して「人付き合いの上手さ」などではありません。より具体的に言えば、組織が抱えている「真のスペシャリスト」…、その能力を最大限に活かして利益へと繋げていく、ということです。そのため「真のゼネラリスト」は全方位にアンテナを張り巡らせなければならず、職場における組織の機能不全や人間関係からくる何らかのトラブルには常に敏感でなければなりません。つまりはあらゆる職場のリソースを毀損するような現象を未然に防ぐか、そのような現象が発生した場合の原状回復を早期に行う…、それが「真のゼネラリスト」に求められているマネジメント能力です。だから短期的には、「真のゼネラリスト」は職場の汚れ役、悪役を買って出なければ成り立たないことも事実です。

ところが日本ではそのような人材を具体的に育成しようとしてきた歴史がありません。なぜならば、そのような人材は、つい十数年前までなら自然発生的に出てきたからです。どこから出てきたのか?その一番の発生源が高校や大学の部活(クラブ活動)でした。よって本格的な部活(クラブ)の部長やマネージャーともなれば、すでに「ゼネラリスト」としての萌芽期を迎えているのですから、そんな彼らは企業や学校からすれば「是非とも欲しい人材」となり、争奪戦が繰り広げられました。

しかし21世紀以降、そのような「ゼネラリストの卵」の供給源が急激に枯渇し始めます。それは高校や大学における「部活の自治」が崩壊し始めたからであると私は考えています。では、なぜ「部活の自治」が崩壊したのか? それはどの高校でも大学でも(特に私立では)「部活をその学校の広告塔」にすることに舵を切っていったからです。奇しくも「部活の広告塔」現象の始まりの時期と、少子化を憂慮した学校が相次いで「学校経営コンサルタント」を導入していく時期とが重なります。つまり部活は学校の経営上(広告的な)の、もっともコスパの良いリソースとなっていったのです。

だから学校は、競って部活に注力し始めます。それまで学生たちの「自治」によって運営されていた部活は、プロによって運営され指導されていく時代に突入したのです。それまでは、せいぜい高校野球の一部強豪校にしか見られなかった「部活商業主義」が、サッカーはもちろんのこと、あらゆる運動部、或いは一時的に人気の出でいる文化部などに広がっていきました。そして学校業界では、特に「コスパが良い」競技として、ここ十数年の間にたくさんの高校や大学が資本を投入してきたスポーツ…、それが陸上競技…、の中の長距離走であるってことは有名な話ですね。高校生のうちに有力な長距離走者を養成し、それを大学に繋げる…、そして大学は…、そうなんです、「大学対抗箱根駅伝」に繋げていくんですね。日本の正月の2日と3日にわたって、恐らくは驚異的な視聴率の下で、駅伝ランナーが大学のゼッケンを胸に力走する…、その躍動感、爽快感、それに悲壮感を伴ったドラマ感…、つまりはすべての感動が、その大学名とともにテレビの視聴者に擦り込まれるのです。上位を走っていれば、時間にして10時間以上もの間、「大学プロモーション」状態が続きます。そしてその効果は絶大であると聞きました。

そうなったら、もう「部活の自治」なんて言ってられません。旧き良き時代の「牧歌的なクラブ活動」には戻れないのです。そして同時に「部活の自治」という環境によって連綿と輩出され続けてきていたところの「真のリーダー」や「真のマネージャー」が枯渇し始めたのです。よって将来の「真のゼネラリスト」に繋がる人材が圧倒的に不足している…、それが現状です。

部活が「勝利至上主義」や「商業主義」と結びついていく過程で、その部活の運営は、より勝利に近づけるためのプロの指導者によって運営される…、ということは述べましたが、そうなると部活の部長やマネージャーの存在は、単に運営者(監督など)の支持を部員に伝えるというだけのメッセンジャーにしかなり得ず、当然に部活の有機的な新陳代謝は損なわれます。「部活自治」の下で、高校生や大学生が、膝を突き合わせながら自分たちの「青春の場」であるところの「部活のあり方」「部活の方向性」を、確かに伝統的に残る「部活内理不尽」とも言える封建制と何とか折り合いをつけながらそれでも民主的に決めていく過程で、自然発生的に生まれる「リーダー」や「マネージャー」が育たないのは、彼ら高校生や大学生を「真の大人」と見做さず、あくまでも運営者(監督)のビジョンに沿ったプレイヤーの地位に押しとどめているからではないか…、そう感じます。

よって現行の部活では、部員は全員がプレーヤーという名の「スペシャリスト」を目指し、その彼らを束ねる「ゼネラリスト」の地位をプロの大人たちが独占しているという現象になっているのです。よってプレーヤーとしてのマインドを擦り込まれた人々(部員)は、常に自分たちを勝利へと導いてくれる指導者を求め続けます。そしてそのような現象は、少年野球を初めとした「少年スポーツクラブ」の増加と台頭により、完全にスポーツ界を席巻しています。まるですべての少年が「プロの競技者」を目指すかのような「子どもスポーツ市場」ができあがっているのです。

であるならば、そのような括りの埒外に置かれている「公立学校の部活」に活路を見いだすしかありません。未だ「勝利至上主義」「商業主義」からは距離を置いている(置かざるをえない)ところの公立(特に高校)にこそ、次代を担う「真のゼネラリストの卵」が生き残っている可能性があるからです。

そして調べてみたら…、あるんですね、そういった公立高校が…。決して公表はしていませんが、明らかに中学までの内申の「特別活動」の記載に「部活の部長」や「生徒会役員」といった「リーダー格」の生徒を(偶然というにしてはあまりにも無理があるほどの確立で…)合格させている高校っていうのが(たぶん都や県の方針として意図的に)設置されています。おまけにそこに入学するには学業面でもそこそこに上位層でなければなりませんから、彼らの高校卒業時の進路先には、推薦による「国立大学」への道が用意されています…、つまり考え方によっては、彼ら「ゼネラリストの養成」は国策とも言えるのです。

公立学校の、このようなある意味で思い切った「振り切り方」を私は個人的には支持する者です。将来の「リーダー」は、国や自治体が意図的に育て上げなければならない…、そんな時代に突入しているからです。そしてそのことを密かに察知した自治体の教育委員会が(秘密裏に?)進めてきた「ゼネラリスト養成計画」…、それが私の見立て通りであるとするならば、私がいつもは厳しい目を向けるはずの教育委員会は「あっぱれ!」です(なんで上から目線なのか?!は、置いておきます…)。

偶然にであれ計画的にであれ、そのような「ゼネラリスト養成」の機運が高まって10年ほどが経つのでしょうか? そろそろそのような環境の下で育ってきた若者が社会で活躍してもおかしくない頃合いになってきましたね。

「公立中学」→「公立高校」→「国立(公立)大学」という流れの中で、そのような「ゼネラリスト」が養成され輩出されているという機運…、それは間違いないと思うのです。

 

 

 

 
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