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ダウンサイジング理論。



若い頃から、自身の回りで発生する理不尽には無頓着ではいられない性格でした。その理不尽を追求したり、時には糺したりしようとするものですから、特に「年長者」、つまりは学生時代でいうところの先輩やOB、それに権力だけで子どもたちを支配しようとする一部の教師から睨まれ「要注意人物」とみられていたことは隠すことのできない事実であり、長じて社会人となってからも、特に保守的なだけで中身の乏しい上司からは相当に疎まれていた…、そういった人間関係や精神的構造の中で、私は現在までの自分を形作ってきたのです。

要は「生意気」で「面倒」なヤツの代名詞みたいな存在…、それが私の立ち位置です。しかしそんな私のことを実は目を細めながら静かに応援してくれていた年長者にもたくさん出会いました。そういった方々は一様に権威や権力からは遠いところにいて、それぞれに魅力のある個性的な存在となっていましたが、どうやら私はそのような方々と相性が良く、物的にも心的にもたくさんの恩恵を受けながら(つまりは可愛がられながら)、そういった「声なき声」が自身をきっと支持してくれているという思いに支えられながら、周囲の「理不尽」と対峙し続けていたのだと今さらながらに思うのです。

おもしろいことに私を支持し、応援してくれていたであろう年長者たちは、ほぼ私よりも十歳以上、干支で言えば一回りも上の方々が主で、私との年齢が近い、いわゆる「先輩」として括られるような人々からはそのような支持者や応援者はほとんど現れませんでした。

つまり私の仕事人生(教員人生)は、常にこのような十歳以上も歳の離れた方々の「存在そのもの」と私への「温かいまなざし」に励まされながらの人生…、言い換えるならば、たとえ私が体制や権威から邪魔にされ疎まれ続けていたにせよ、それでもなおかつ私の「反骨のエネルギー」が枯渇しなかったのは、そのような方々が背後に控えていたからであるとする安心感のためであったと言えるでしょう。

ところがそういった年長者(私の応援団)も、私自身が50を超える頃になると、相次いで私の視界の届くところからは消えていきます。それぞれに定年を迎えて生活スタイルが変わったことがその理由なのでしょうが、「私の視界から消えていく…」、その消え方にずっと私は違和感を抱いていました。具体的には、それまで物理的には遠く離れていても、常に精神的な部分では私の近いところにいて、時に上質なアドバイスを投げつけてくれるような年長者(私の応援団)は、60を超えた頃から意図的に私から遠ざかっていった…、そのような寂しさを確かに私は感じたのです。

当然に私はそういった方々を追いかけます。たとえ定年で生活スタイルが変わったとしても、「もう現役じゃないから…」と言われたとしても、私はそういった方々との上質な人間関係の中から生きるヒントを得ていたのであり、その関係性を壊したくない…、だから私は追いかけたのです。

しかし年長者は皆、私の接近を静かに拒絶しました。何故か? それがしばらくは分からなかったのです。

よって、ある意味で私はそれから孤独の10年を過ごすことになります。権力や理不尽に対する反骨精神は消えることはありませんでしたが、何故か私は「得体の知れない不安」な気持ちにもなっていました。反骨的な(人によっては過激とも映る)私の言動を私自身が検証する機会を失ったからです。であるならばその検証を年少者に委ねようともしましたが、ダメです。私よりも歳が若い人々には、私のような「クセ者」には、直感的に「危険」を察知して自身のテリトリーから消極的排除をするか、逆に「面白い存在」として観察の対象になるかのどちらかにしかなり得ず、つまり体を張って私の言動に「モノ申す」という人間関係には結局なることができませんでした。

そうして人生の羅針盤を失ったまま、手探りで自身の進路をなんとか見定めながらの50代が終わり、いよいよ私も60代に突入しました。ご多分に漏れず私たち夫婦も「定年」と向き合い、次の人生、生活スタイルを真剣に考えるようになりました。「これからの働き方」「これからの健康」「これからのお金」…、と考えなければならないことはたくさんあります。生活のすべてがリセットされるのですから、「今までと同じ」でいいことなんて何一つありません。

と、ひとつずつ「これからの…」を考えていった時、「これからの人間関係」ってどうしたらいいんだろう?、となったわけです。生活のすべての部面でダウンサイジング(サイズを今までよりも小さくする、という考え方)を試みなければ定年後は危険だ…、と誰かが言ってたし、たとえ言ってなくてもそのくらいの想像はできますが、こと「人間関係」、これを金銭面で捉えれば「交際費」をダウンサイジングすることに関しては、何だか直感的に「それは違う!」と判定する自分がいました。

60になってから法人を立ち上げ「次なる仕事」と「次なる働き方」を積極的に変えようと攻め続けている(と思うことで自身を敢えて鼓舞しているんですが…)自身の立ち位置と、「人間関係」のダウンサイジングとは、どうしても両立しません。仕事の性質上、むしろ「人間関係」は今まで以上に多岐にわたり、そのネットワークには様々な彩りが加えられることになるはずですから、「交際費」の縮小(ダウンサイジング)なんて、それ(法人の発展)に逆行する考え方となってしまうわけです。

で、気づくわけです。

10年前、私の周囲から、それまで私を応援してくれていた年長者たちが静かに退場していたホントの理由に…、気づいたのです。

皆さん、生活のダウンサイジングを実践して、その結果としての「人間関係」の縮小だったのですね。そしてもう少し好意的にその「人間関係」のダウンサイジングを分析して場合、例えば「もうアイツ(井上)は大丈夫だ…、具体的に応援しなくてもやっていける」とする思いから、敢えて良心的に私(井上)を切り捨てたんですね。

皆さん、これから始まる余生を静かに、そして清く正しく、更にはできるだけノンストレスで送りたい…、そう考えてのダウンサイジングなら、その気持ちよ~くわかります。

でも…、んっ? ちょっと待てよ…。「これから始まる余生…」ってなんだよ!

私の60代…、それも「余生の始まり」なのか? 静かに暮らさねばならないのか? ジジ・ババのネットワークに仲間入りして「お前も大人しく生きろ!」ってか?

いやだ、いやだ! そんなの絶対にいやだ。「断固拒否」します。

私を長年応援してくださった年長者のみなさん、申し訳ありません。私には「人間関係」をダウンサイジングする気はまったくありません。これからもたくさんの(特に若者)と出会い、刺激を受け、できれば彼らに刺激を与え続けることができる存在として生きていきたのです。大人しくはしていられません。「反骨」は未だ健在なんです。なんだかしらないけど「しぶとい」んです…、私。

だから先輩諸兄のような生き方は、たぶん金輪際できません。そのことをお許しください。

「老いては子に従え…」大嫌いな言葉です。

嫌われ者でもいい…、けれどジジィの1人として括られるよりも、最後まで「ただの1人の人間」であり続けたいのです。
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