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学校で「クラス替え」が行われる理由。



周辺の不動産価格が下落していく中、25年間住んでいた家を当然に納得のいかない価格で売却して現在の家に住み替えたのは、今から4年前のことです。齢(よわい)58にして〇千万円もの住宅ローンを新規に組んで(59まで組めると言われました)、娘が嫁いだ後の私たち夫婦が転居を決めたのにはそれなりの理由がありました。

「なんか最近、この辺も息苦しくなったよね…」、それが理由です。日常生活における地域社会での小さな事件、些細なスレ違いが積み重なった時、夫婦は「引っ越ししようか…」という結論を得たのです。その決断は、端からみれば「唐突」であり「衝動的」とも言えるもの(娘もビックリ!)でしたが、今となっては「悪い決断ではなかった」と自負するものであります。

「ウソでしょ!」「攻めるねぇ~」などと、当時の同僚は若干の嘲笑を含んだ驚きを隠せない様子でしたが、何でしょう…、その時の私(と妻)の内なる声は「とにかく気持ちよく生活したいよね」だったのです。そういった点で、普段は未だに互いの価値観の相違に苛立ったりしている私たち夫婦ですが、この時ばかりは瞬間的に価値観が一致したのです。「似た者夫婦」になってきたのでしょうか?

おかげで私は79歳まで住宅ローンを返済することとなり、働くことに対するモチベーションが高まり続けているわけです。そして結果的に働き続けることによって日々の出費も抑えられ、ついでに精神衛生的にも肉体的にも良好な状況で生活を送ることができているのですから、今のところ晩年になってからの「攻め」=「転居」=「借金」は、「いいことずくめ」であるようです。

妻にとっては、この「いいことずくめ」にもう一つ「いいこと」が増えました。9割以上の確率で妻の方が長生きするでしょうから、妻はその日「Xデー」を待ち望んでいます(きっと)(笑)。つまり私の抱えている住宅ローンは、団体信用生命保険との契約上、私が79歳までに死んだ場合、残りの債務が免除されるのです。ということは…、です。私が逆の立場でも「ニヤニヤ」しちゃいますよね。はい、しちゃいます、絶対に…。

ところで、私たち夫婦が決断したのは、ただの転居ではありません。「新しい家に住みたかった」からではなく「人間の入れ替えをしたかった」ということに尽きます。こう言ってしまうと、以前の周辺住民に何か問題があったかのような印象を与えてしまいますが、決してそうではなく、単純に人間関係がパターン化してきた…、つまりは「おもしろくなくなった」というのが私たちの本音だったのです。

私の場合、この「おもしろくなくなった」という感情は、「緊張感がなくなった」とか「ワクワク・ドキドキがなくなった」という感情に近く、そういった感情の連続が「老い」を加速させてしまうのではないかとする本能に近いものであると考えていただいても問題ないと思います。

人間というのは、他の動物がそうであるように、ある一定期間一つの集団に関わり続けることによって、自ずと「序列=ヒエラルキー」を形成するものです。集団を率いるリーダーを出現させ、そのリーダーに盲従するグループや、逆に反発するグループ…、ただ声が大きく自身の影響力を誇示するだけの人々や、あまり深く物事を捉えず、ただ集団の一部に留まっていようとする人々…、すぐに争い事に持ち込む人々や、とにかく諍いを好まない人々…、そんな人々によって集団は序列化され、コミュニティーの秩序が形成されていくのです。

つまり私たち夫婦には、そんなコミュニティーの秩序が「肌に合わなくなった」のです。同時に私は、長年勤めてきた職場を再雇用の要請を断って退職しました。その結果、私の周囲の景色は劇的に変化しました。吹いてくる風がまるで違います(っていうか、今までの職場には風なんか吹いてなかったなぁ~)。日常の中に登場する人物も、地域であれ職場であれ劇的に若くなったことには正直なところ驚いています。そしてその「若さ」との触れあいの中から、見た目はどうであれ私自身の精神は、確実に清められているとする実感があります。

思えば、私たち夫婦は、これまでに4度の転居をしてきました。転勤とかではなく、職場は変わりませんでしたが、たぶん子どもの生活環境を重視しての転居であったと記憶しています。「孟母三遷」を小さく実践してきたんだな…、と思ったりはします。そして(おそらく)最後の転居は、子どものためではなく、自分たち夫婦のための「終のコミュニティー」を求めての衝動決めだったのです。

ところで、私は結婚前にも「人間関係のリセット」を経験していました。それは無意識下の、しかし確信的な選択だったのですが、大学を選ぶ際の条件として私は「地方での下宿」を最優先したのです。首都圏(埼玉)にあって、実家から通うつもりならば大学は星の数ほどあった(いや、私の頭では数えるほどか…)のですが、その時の私にはあくまでも「下宿」を実現するためだけの受験でしかなかったのです。そして「下宿」を決めてから、私は年に1~2度しか実家には戻らなくなりました。もちろん、それまで共にしていた友人たちとの仲も疎遠になっていきます。「最近、つきあい悪いよね…」などと言われたりもしていましたが、「地元にはいられない」とする思いを強烈に抱いていたことは確かです。

でも、開き直っちゃいますが、それって人間の本能だと思うのです。いや、すべての人間の本能ではありませんね。一部、私のような「独立癖」の強い「天邪鬼な」人間がもつに至った「人間リセット」の習性は、だからすべての人にお勧めできるものではありません。

しかしながら、この精神的独立心を抱きながらも、そのことに気づかず、集団の中に埋没して悶々としている人々の存在を私は知っています。そして彼らは、カビが生えるほどに長居し過ぎた集団からの脱出を内心では願っているのに、それが中々できない…。怖いんです。集団からの脱出によって新たに構築される新集団の中での「評価」に彼らは怯えているんです。

今、日本社会は実に排他的となっているように思います。集団の特定会員に名を連ねて初めてモノが言える、仲間扱いされる…、そうでないヨソ者は「消極的に排除される」んですね。だから集団内の新陳代謝が悪い…、当然に「いじめ」は日常化するし、常識はローカル化します。前回のブログでも紹介しましたが、システムズアプローチがまるで機能しない「無限ループ」に陥っている…、それが現代のコミュニティーの姿です。

集団から集団へ、コミュニティーからコミュニティーへ、人為的につくられた「見えない壁」そして「見えない常識」を自由に乗り越えてどこにでも飛躍することができる人々を私たちは大量に輩出しなければなりません。

そのためにも、まず「そのことに思い当たる人(大人)」から、実践しなければならないでしょう。アナタの思考を停止させてしまうほどにアナタを縛り続ける「集団」からの脱出を試みてみませんか?
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