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「孤独」が人を強くする。



今年もそろそろ、秋彼岸の時期を迎えます。

私の場合、その成長過程で父親の影響を多分に受けていたと自覚する者ではありますが、こと父が亡くなってからというもの、その後の私の人生に父の「思考」「生き様」が構造的に住み着き、私の生き方を支配しています。

生前から特段に父を意識していたわけではないのですが、ものごとの節目、大きな決断を伴う一大事に際して、父は何かにつけて私の脳裏に蘇るのです。どちらかと言えば家族からは「嫌われ者」であり続けた父ではありましたが、同時に「目が離せない」「注目に値する」…、そんな存在でもあったということは正直に認めようと思います。

父は、終戦後の混乱の中で、いかにも上手に「ズル賢く」生きてきた人間です。大手鉄工会社には学歴を偽って採用されています(時効ですね。決して珍しいことではなかったようです)し、腕一本、頭一つでそれなりに出世もしてきていたようです。しかし父の生来の野心は、父をして単なる会社員に留め置くことを許しませんでした。父は、志を同じにする同士を募って独立起業を果たします。既に「鉄の時代」は終わりを告げようとしていた70年代の初頭でした。

その会社(鉄工会社)は、高度成長期の終焉と共に、第一次石油危機を引き金として倒産します。わずか3年ばかりの社長業でしたが、資本主義に勝負を挑んだ…、そのこと自体を非難するつもりはありません。しかし家庭を守る母親にすれば、父の野望への挑戦と失敗は、だいぶ違った評価となるようです。

決して少なくない借金を父が残したこと…、そのことが我が家の家計を窮地に陥れ、母親が勤めに出なければならない事態となりましたので、家族の中の父親の権威は当然に暴落しました。それでも父は5年後に再起を果たします。借金を返済しながらも新規の融資を受けて(そんな時代もあったんですねぇ~)鉄工会社を再び設立したのです。

ところがそこに第二次石油危機が襲いました。加えて共に会社を設立した相棒に多額の運転資金を横領されました。その結果、2つ目の会社もわずか2年で倒産してしまいます。そしてその時に残された莫大な借金が、その後の父の人生を強烈に縛り付け、父から「自由」を奪いました。当然に家庭からはかろうじて点っていた団欒の灯が完全に消えてしまいました。私が高校生となった年、父が40代の半ばであった頃です。

しかし父は強烈な向かい風に抗いながらも、決してその境遇からは逃げませんでした。いや、そう言ってしまうと随分とカッコいい印象となってしまいますから本当のことを述べますが、父は家庭からは完全に逃亡しました。家族に対する責任を放棄したのです。そして借金返済のためだけに働き続けました。当時、俄に広まっていたマンション建築ブームの中で、父は新たにユニットバス据え付けの技術を習得して建築業へと参入していったのです。そして家族には秘密裏にそのユニットバス据え付けの仕事を私に手伝わせました。高校生としては破格のバイト料を得ながら、私はいくつもの建築現場を渡り歩き、それなりに腕を磨いていったのです。当然、学校(高校)がありましたからバイトは主に週末となりますが、時には一週間続けての現場仕事を任されることもありました。

父は、春夏秋冬どんな現場に行っても、誰とも交わらず無言で働き続け、据え付け職人としては断トツの結果を残し、収入も膨らんでいきました。そうして10年、私は金銭的にも学力的にもかろうじて大学を卒業し、就職して教員となってからも、変わらず、主に週末になると、父の仕事に駆り出される…、そんな生活を続けていました。

それでも父の借金は残り続けます。そのことの重要性=「重さ」を社会人になってからの私はやっと理解します。そしてある時、父にこう告げたのです。「借金返すの止めちゃいなよ!」「自己破産すればいいんだよ!」と。その言葉を放った私を睨む父の目には間違いなく憎悪が伴っていました。そして私は怒鳴られました。「バカヤロー!」「借りたものは返すんだ!」…、「お前、自己破産の意味、分かってんのか!?」…。「自己破産ってのはな…、借金は帳消しにしてやる…、だけど社会的には『死ね』ってことなんだよ」…、「そうなったら、もう誰もオレに金貸してくんないだろ!」…。「オレは、また会社…、作りたいんだよ」「誰にも邪魔させねぇ~」。

なんなんだ?この強さは…。そう認めざるを得ない「鋼の精神」を父から浴びせられた瞬間でした。

思えば父は、ずっ~と「孤独」でした。しかし完全に孤立無援の中でも、フツフツと湧き上がる野心だけは捨てずに(いや、捨てられずに)いたのです。

父が65になった時、私は父の終戦…、つまり借金の返済終了を聞かされました。それを告げながら、父は久々に目を輝かせて「中国に来ないかって誘われてるんだ…」と言ったのです。今から25年も前のことです。結局「中国行き」の話は流れてしまったようですが、その後も父は知人のツテを渡り歩きながら「何でも屋」として働き続けます。確か80を超えた頃だったと思うのですが、自身がかつて設置した工場の製造ラインを全面的に改修するという大仕事を引き受けてきたのを覚えています。

晩年は、あと一歩のところで逃げられたであろう母との関係性も改善され、孫やひ孫にも囲まれながら、時に親類や近所の家々のリフォームを請け負いながら小遣いを稼いでいたようです。

「頼むから、借金だけは残さないでくれよ!」と、私は父に一度だけ釘を刺したことがあります。

父が死んだ時、残された預金通帳の残高を見て、私は「ビンゴ!」と叫びました。

残高「8800円!」…、これが父のある意味で「見事な人生」です。

「孤独」が父を強くした…、そして父の人生に意味をもたせ、私たちの人生に少なからずの緊張をもたらします。だから私は、今でも、そしてこれからもきっと父の影響下にあるのです。

彼岸を迎えて、あれだけ破天荒な父がホントに彼岸にまで到達したのかどうかは疑問ですが、もしも彼岸の彼方から私の人生の後半戦を見ているといたら、きっとケラケラと声を出して笑っていることでしょう。

今、私は「孤独」ではありません。たくさんの理解者に囲まれながら、それなりに楽しく生きているつもりです。しかし「孤独」への入り口ならちゃんとしっかりと確保しています。人に疲れた時、心がザワつく時、そんな時に私は「孤独モード」のスイッチを作動させるのです。

とんだプライベートな父の思い出話になってしまいました。お許しください。

私は、だから「孤独」は恐れてはいません。「孤独」も大切な自分の一部であると心得ています。
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