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学校教育のあり方が、企業経営に繋がっていく理由。



現在非常勤で勤務する高校の今年度の始業が、GW後からになるとする決定を、先週末に受けました。いよいよ政府による非常事態宣言も発令されるのではないかとする気配も漂っています。

3月の初めに全校の休校が要請されてから1ヶ月が経ち、さらにまた最低でも1ヶ月の休校措置です。生徒を前にしてワイワイ・ガヤガヤと授業をしていた光景が、まるで遠い昔のことのように思われます。そして、やはり職業病なのでしょうか…、ココロがうずくのです。「早く生徒達に会いたい!」などという青臭い理由ではありません。休校中の1ヶ月間、妄想の中で試行していた新しい授業のカタチを早く試してみたくて…、そして授業後の生徒達の満足顔を見てみたいし、それを実現させた私のドヤ顔を見せてやりたいのです。

教員とは「次は子どもたちのために(狭義には授業で)何をなってやろうか…」…、そのようなことを考え続けている職業なのですが、肝心の子どもたちが学校に不在なのですから、まったく商売になりません。つまり日々「妄想に耽る」しかないんです。



このように教員は、世間の誰よりも(場合によっては保護者よりも)至近距離で子どもたちと接することで、彼らの息づかいや肌温度を体感しているんです。だからしっかりとしたアンテナさえ備えていれば、大抵の教員は、子どもたちの微妙な変化にも敏感に気づきます。

今次のコロナ禍で、子どもたち(特に高校生)は、日々暮らしていた社会が「当たり前のようには機能しない」という現実を経験しています。大人たちが構築してきた若者の青春を担保するはずの学校システムも、家族が生活の拠り所としていた労働システムも、そして人々が生きていくための経済システムすら、実は危うく脆弱な代物であったということを思い知ることになります。そしてそのような「思い」は、大人たちの「思い」の何倍もの危機感となって彼らの精神の深いところに堆積していきます。

感受性がもっとも高い高校生には、社会全体のものであったはずの危機感は、「漠然とした己の危機感」となり、ますます不安の中で煩悶し続けるでしょう。しかしおそらく、彼らはそれを態度や表情には表しません。日常では変わらず、明るく、暢気で、バカな高校生を演じるのです。



しかしこの若者たちの集団を侮ってはいけません。彼ら若者は、現在の日本の、そして世界の一大事を差配する大人たちを真剣に見つめています。コロナに翻弄され、自説を唱え拡散させるためにメディアに露出する大人たちを見て、「バカな大人」と「賢い大人」にしっかりとカテゴライズしているはずです。つまり彼らは見極めます。「バカな大人」の本質を…。そしてその「大人の本質」を形成する背景が、必要以上に学歴や肩書きに脚色されていることに気づくかもしれません。

よって彼らは、学歴や肩書きなどという曖昧な尺度を基準とせず、「賢い大人」に共通する実像(例えば教養や文化、人間性)を基準とした本質の見極めをすることができるようになるかもしれないのです。そういった意味では、今の社会の混乱ぶりと政治家を初めとする「大の大人」たちの無秩序なる言動ぶりは、若者にとっては重要なケーススタディーの典型となってはいます。



つまりこれからの若者は、これまでのような「大人に従属するだけの」存在ではなくなるはずです。そこのところを理解せず、相変わらず「有用なるイエスマン」を今まで以上に輩出し続けようとする企業経営者は、まずはこの現実を受け入れなければならないでしょう。彼ら若者が「従属する」に相応しい大人は…、すでに世間であまたの醜態を露わにしてしまったのですから、残念ながら「バカな大人」の復権は叶わないのです。

今後、企業が真に優秀なる人材を求めるならば、現在、そして近い未来の高校教育・大学教育を観察する必要があります。学歴や学内評価の埒外で、深く人間社会を憂い、考えている(つまりは哲学を日常としている)若者にこそ、企業の未来が担えるのかもしれません。

学歴フィルターですか? そんな過去の遺物…、そしてファンタジーとして以外には何の意味も無いものを根拠に人材を確保しようなんていう魂胆は、金輪際捨て去るべきです。

人間を見抜く眼力…、それを備えた人事部組織を早急に構築するべきでしょう。

まずは高校に、そして大学に足を運んでみるべきです。
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