学校にこそリスクマネジメントが必要な理由

学校は市場とは分断された存在であった…、そんな時代が確かに続いていました。良くも悪くも学校を市場的価値のみで判断するべきではないとする暗黙の了解が、おそらく30年ほど前までは機能していたのだと思います。ところがバブル崩壊以降のデフレ社会は、人々の価値基準を大きく転換させます。経済的格差とそれによってもたらされる生活格差が厳然と進行するなか、それをなかなか認めたがらない人々は、格差間によってものごとの価値の基準がすっかり変わってしまったことを認めたがりません。つまりパラダイムの大転換に無意識にしろ意識的にしろ抗っていたのです。よって世の中のあらゆる価値基準が人々の同調圧力によって歪められました。「みんなと同じものがいいものだ…」とする圧力です。学校とて例外ではありません。公立至上主義、偏差値至上主義が今日まで存続することができているのは、公立学校の教育こそ平等教育の権化であり、偏差値による学校の序列こそが、唯一の平等的序列であるのだからそれを容認する…、という信仰心にも近い思い込みを何十年も続けてきたからです。よって親の世代が公立至上主義であり偏差値信仰主義であったならば、その思考停止状態はさらに何年も続いたはずですし、現に一部の親の中には、未だにそれを疑っていない人々も存在します。

ところがネットの普及は、学校をいとも簡単に市場に引きずり込みました。それまで何重もの堀によって守られてきていた「学校という聖域」に、あっさりと市場原理が舞い降りてきました。そして市場は、当然のこととして学校を容赦なく評価の対象として晒しました。学校が市場で「選ばれる」…、そんな時代が本格的に到来したのです。

1 学校こそスキャンダルの温床

なんてことはありません。聖域であった学校の重い扉を開けてみたら、そこにはとんでもないトラブルやスキャンダルが横たわっていました。でも考えてみれば当然のことなんです。だって学校というサービス業は、設備の大半が教員という「人間」で、そこで生産されるサービスを教員が提供し、それを商品として生徒(そして保護者)という「人間」が購入するのですから、これほど人間臭さが充満している場所はありませんね。そして人間が過度に集まるところには必ずといっていいほどトラブルやスキャンダルが発生します。

生徒間のいじめ、喧嘩、教員による生徒への暴力(言葉の暴力も含む)、教員(特に男性教員)による生徒(特に女子生徒)への不適切行為、教員と保護者のトラブル、教員間のパワハラ、教員間のセクハラ、アカハラ…、数えればきりがない…、これでもか! というほどのトラブルやスキャンダルが潜在的に内包されている…、それが学校の実態です。だから学校管理職は、つねに複数のトラブルを抱えながら(想像するに)かなり憂鬱な日々を送っているはずなんです。決して公表はしませんが、学内トラブルがこじれて訴訟沙汰になっている案件もかなりの数に上っているようです。そしてそんな学校に生活をする子どもたちは、だから微妙に複雑な心境のまま、つまりは学校に対する不信感や嫌悪感を抱きながら仕方なく在籍している…、そんな状況にあるのです。

2 トラブルやスキャンダルを公表したがらない学校

冷静に考えればトラブルやスキャンダルが頻発してもおかしくない…、それが学校です。少し世間知らずで気位が高く、子どもたちに君臨し続けることで偉くなったと勘違いしているところの一部の教員と、人生の中で一番多感な時期をすごす子どもたち…、それに自身の子どもを預けてお客様気分になっているだけの一部の保護者…、そんな人々の利害が絡む学校現場に、考えてみればトラブルが起こらないほうがおかしいですね。

これがサービス業を営む企業であれば、この手のトラブルは企業イメージを悪化させますから、即刻、トラブルを解消するための手立てを講じるでしょう。そしてそれを専門にしている部署も存在しますね。さらには顧客満足度調査なども頻繁に行って、そもそも一つ一つのクレームを処理していく中で、それがトラブルに発展しないような努力もしています。それを世間ではリスクマネージメントって呼んでいるんですが、そもそも学校には、そういった精神がありません。トラブルが実際に起こってから、スキャンダルが発生してから…、押っ取り刀で管理職がことの対処にあたるんです。だからすべてが後手にまわります。しかも民間企業とまったく違うのが、そのトラブルやスキャンダルを自ら公表したがらないということです。と、これは世間に対してだけではなく、学校内の教職員・生徒に対しても公表しないことが多いんです。しかしどうあっても人間の口は止められませんから、噂が噂を呼んで、もうとんでもない事態に陥ってしまうことも珍しくありません。教員間に、そして生徒間に疑心暗鬼の渦が発生するのです。

3 うまくいけば隠せるであろうとする「甘さ」

学校がトラブルやスキャンダルの公表に積極的でないのは、それが元で責任追及されるのが怖いからです。そこの部分の精神状態は学校も役所も大差ないのですが、誤解を恐れずに敢えて言わせていただければ、役所の隠蔽体質は、おそらくは内部告発者が頻繁に出ない限りこれからも続くでしょう。そしてそのようにして役所の伏魔殿的存在は担保される可能性が高い…。しかし前述したようにネット社会の最前線に放り込まれている多感な子どもたちとその保護者を大量に抱える学校には、この役所的隠蔽体質は致命的です。そもそも「隠蔽」が成功する…、そう考えること自体が「甘い」と断言せざるを得ません。

隠せるわけもないのに、見苦しくも隠そうとする…、それは学校管理職の大半に役人的精神が染みついていて、自ら進んでドロ水をす吸うような奇特な御仁が少ないからなんでしょうが、誰がどう考えたって隠せないものは隠せないんです。でも誤解しないでください。トラブルやスキャンダルの案件によっては、敢えて隠さねばならないものもあります。特に生徒間のいじめによる複雑な人間関係は、何も積極的に公表しない方がいじめられている子どもを守るためにも必要な前提でしょう。しかしながら、学校の隠蔽体質は、ほぼ間違いなく「誰かを守るため」の手段ではなく、組織を守るため…、と称して本当は「自身を守るため」の自己防衛手段にしかなっていないのです。

4 公表しないことのリスク

でもトラブルやスキャンダルをその都度公表したら、学校のイメージが悪化し、生徒募集にも影響し…、地域住民に対する「学校」の信頼を脅かし…、ひいては教職員の生活にも悪影響を及ぼす…、だから公表しない、ですか? それはまったくのご都合主義であり管理職者自身のおためごかしにしか過ぎません。公表して失うものより、公表しないで失うものの方がはるかに多いってこと…、そろそろ気づきませんか。世界に名だたる有名な自動車メーカーですら「リコール」を宣言することによって、逆にユーザーからの信頼を得ているとも言います。一時の損出よりも将来の信頼に先行投資する…、そんな企業精神がここ20年くらいでスタンダードになってきているんですね。

学校になんだかのスキャンダルが発生して、それが何かのきっかけで世間の知るところとなった…、しかし例えば、そのスキャンダルについて学校関係者が重い口を開くまでに(場合によっては記者会見を開くまでに)かなりの時間を要することが多々あります。事件の発生から半年くらいしてからの公表なんてことも結構ありますよね。あれって、その間、学校や教育委員会が「何とかして公表しなくて済む方法」を探っていたと思うんです。しかしながら関係者の意図と期待に反して事件が明るみになってしまう…、何度も言いますが、それって当たり前のことなんですよ。たとえ5年後であろうが、10年後であろうが、間違いなく事件(スキャンダル)は白日の下に晒されます。もういい加減に、学校関係者は、その「甘い」考えを捨てて、すべてを早期に公表する…、そういった勇気と覚悟をもっていただきたいものです。そして世間は、そういった勇気と覚悟のある人々によって経営されている学校にこそ「嘘」や「ごまかし」がない…、そう信じてあげることです。

5 世間の責任

学校が市場の評価に晒される機会は、これからますます増えていくでしょう。しかしながら私たち世間の人間は、学校という一見すると特殊な機関に妙な偏見や先入観を抱いてはいませんか? 「先生は善人にきまっている」とか「子どものことは学校に任せていれば安心」とか「学校が一番安全な場所」などという考えは、今となっては完全にファンタジーでしかありません。学校こそ社会の縮図です。社会がより複雑で生きにくくなった分、学校もまた複雑怪奇な場所になってきているんです。そういったことを私たちは、私たちの責任として認識しなければならないでしょう。