提案…、育児年金!

私も、娘が生まれたばかりの頃は、ホント、親としての自覚が育ってなかったということを認めます。子育ては、それこそ母親の専売特許で、父親である私の出番なんかそうあるものではなかったからです。だって、子育てに関する知識も経験もな~んもなかったのですから、それこそ妻がそれ(子育ての術)を本能的に習得してるのだから、きっと娘は妻の下でスクスクと育っていくのだろう、と高みの見物を決めていた節がありました。しかしそういった傲慢も、ある意味で仕方がなかったことなのだと、今となっては自身を慰めています。何しろ若い父親は子育てに関しては第一戦に出る必要はなく、ほとんどが妻とその母親の共同作業で淡々と物事が進んでいきます。慰め程度に抱っこしてあやしたり、風呂に入れたり、離乳食をあてがったりすることはあっても、特に3歳くらいまでの間は、子どもの成長の、その本質に関わることはまずありませんでした。家族が困らないような日々の糧を得ることくらいが父親の務め…、と私は(そして周囲も)心得ていましたから、特段に子育てに悩み、身を削ったという印象はないんです。

しかしそれから凡そ30年後、娘の子育てを比較的間近で、それでも遠目から見守るようになった時、若かりし頃の自分の無知を、今更ながらに思い知ることになります。子どもの成育…、いや根源的には人間の成育に、なぜもっと興味をもつことができなかったのだろう…、とする僅かな後悔の念が還暦を迎えた自身に湧いてくるのです。

子育て…、こんなに神聖で崇高な人間の営みは…、たぶんありません。子は母に100%の依存をしながら、そして母も100%の愛情を注ぎながら、互いにその100%を裏切ることはない…、裏切ることができない…、そんな原初的な人間関係の始まりの中で、例えば母親がその肩に負う責任はおそらくは自然界の中ではもっとも重いものでしょう。そして母はその責任の重さを決して瞬間たりとも忘れることなく、子と向き合い続けます。暑かろうが寒かろうが、雨が降っても風が吹いても、その体感を自身の子と常に共にすることから、母親の子育ては始まるのです。そしてその行為のど真ん中にある時、決して母には、そういった子育ての出口は見えていません。出口なき混沌の中を、それでも母は常に「最善」を探し求めて子育てを続ける…、そういった母の人間としての営みが「神聖」であり「崇高」なのです。若い時、単に社会的な父親でしかなかった私には、そんな神聖で崇高な営みを続ける母(=妻)の本当の価値が分かっていなかった…、そのことに対する悔いを今更ながら、ジジィーは抱くのです。

 でもこれからの私にだってできることはありそうです。ジジィーとして娘の子育てを応援する? そんなことではありません。ましてや盲目的に孫を可愛がることでもありません。私ができること…、それは娘の子育てと「市場」を分離させることです。子育ては市場原理で語ってはなりません。資本主義が、そして市場主義が強引に子育てを市場原理の舞台に乗せようとする…、そういった圧力を私たち周囲のサポーターが阻止する必要があるのです。具体的には生活(特に金銭面)の不安を抱えながらの子育てには断固として抗います。勘違いしてはいけないのですが、決して娘の家計をただいたずらに援助するということではありません。母が「不安をもたずに子育てをする」ことだけが目的ですから、その家族の食い扶持に少しでも危険なシグナルが灯った時には、その命を長らえさせるためにあらゆる手段を使ってでも、それを守る…、そのために自身(私の)の家庭がおかしくなっても…、です。その程度の覚悟はあります。それが未来に「命をつなげる」ことになるんだってこと、そしてそれこそが、今ここに安穏と生きているジジィーの使命なんだってことが、最近になってやっと分かってきました。妻も、手段は違えども、きっと同じような心境なのではないかと感じています。

それにしても、このような神聖にして崇高な子育てが、格差社会の波にもまれて実に危うい状態にある家庭も多いと聞きます。「相対的貧困」ですか? 何でも、日本全国の平均的家庭が得る一年間の年収のさらに半分にも満たない家庭をそう呼ぶのだそうですが、簡単な計算ですと、その年収は200万円くらいです。そしてその可処分所得は、たぶん150万円程度でしょう。実家で親の経済的支援を受けなければ、まともな子育てができない…、そんな経済状況ですね。この相対的貧困って、絶対に国の経済政策が理由で生まれた階層です。絶対的貧困なら、そもそも経済政策以前の問題…、つまり干ばつや飢饉、それに内戦なんかが原因で発生しうるのですが、相対的貧困はそうではありません。国が意図的にそうしなければ相対的貧困層は発生しないのです。つまり所得の再分配が20年くらい前から上手く機能していない…、経済政策の失敗です。いや、そういった状況も実はちゃんと予想した上での経済政策ですから、もうこれは確信的人災なんですね。

で、あるならば、この所得再分配機能を復活させなければなりません。しかし一度格差が拡がってしまった社会における所得の再分配政策は、容易ではない…、とする学者もいます。所得の上位に位置する人々、それに中位以上にいる人々の合意を得ることが難しいのだそうです。何を言っているのでしょうか。どっちを向いて政治家は政治をしているのでしょうか。もう一度言いますが、相対的貧困層が増えたのは、確信的な経済政策が理由です。ということは、そのお陰で「しこたま儲けた人々」がいた…、ということです。日本のGDPを健気にも守り抜こうとする人々(政治家)の愛国心(?)が、現在のような現象をもたらしたのです。でも、もう十分じゃないですか。高額所得者はすでに十分すぎる資産を形成して、それを次代へつなげることだってきっとできます。ならば、ここはゲームで言えば振出しに戻って、もう一度、カードを配りなおすんです。今がそのタイミングなんです。そして先進国は、常にそういったダイナミズムによって政治が繰り広げられてきました。アメリカの貧困白人層がトランプ大統領に求めていること…、それだって「振出しに戻す」ことなんです。なんで日本にそれができないのでしょうか。

想像力の問題なんですよ。すべての政治家が、もう一度「子育て」を目の当たりにすればいいんです。政治家に限って、そういった子育てを分かっているつもりでも、本当は分かっていない。「神聖」で「崇高」なる子育て…、それを何の不安もなく行うことができる環境…、それこそが、この国の唯一の財産であるってことを、政治家は、そしてその政治家に踊らされて「保守」を自認している御仁こそ、今一度、近親者の子育てにコミットしてみてください。

老齢年金…、これはあと10年後がその支払額のピークですね。これからピークを過ぎる、その支払額の未来の使い道こそ「子育て」なんです。「育児年金」…、これです。国民年金に加入し、掛け金を納付している全家庭の子育てに、例えば「一人当たり50万円」の年金を支給します。現在の高齢者に80万円の老齢年金が支給されているんですから、お安いもんです。何も難しいことなんかない。ペロッとできちゃいます。もちろん反対派も出るでしょう。でもそういった自己中心的な人々の「声を封じる」のも政治家の仕事だってこと、忘れないでくださいね。

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